月の無い夜だった。

斯様な夜は、闇の者が蠢き易い。

たとえば、夜盗。辻斬り。


尊攘志士。






不意に胸騒ぎを覚え、景吾はすくりと立ち上がった。
太夫の如き鮮やかな着物を捌き、つと襖を滑らせる。
途端、板敷に侍る金剛(陰間の付き人)が眉を上げ、不審気に景吾を見遣る。
然れども、景吾の白い指が容良い唇の前で静止を請うと、
「…お気をつけて」
金剛はただそう一言告げて、敬愛する人の背を見送った。
景吾の顔色に、金剛もまた、この先の運命を朧朧と悟ったのだ。

誂え向きに、外に出るまで、景吾は誰とも顔を合わせなかった。
常に客の溢れるこの陰間茶屋では珍しいことだ。
探し人を見つけようと首を左右にやれば、挿した簪が涼やかな音を立てる。
その音色に応じたのか、ひとりの武士が、路地から姿を現した。
「景吾」
「弦一郎」
こちらへ、と手招かれ、急ぎ足で近づく。
手の届く位置まで来たかと思いきや、無骨な手が腰へ回り、あっという間に暗い道に引き込まれた。
「…久しぶりだな」
「はっ、もう来ねぇのかと思ってたぜ」
「戯(たわむ)れ言を」
景吾は胸を押し返す仕草をするが、その腕に力は篭っていない。
拗ねた表情に僅かに微笑み、武士が陰間の身体を離した。
ちりりと鳴る見事な細工の簪。己が贈ったそれを、弦一郎はしばし目に留め置く。

風が運ぶは、伽羅の香りと静かな問い。

「往くのか?弦一郎」

夜が伝えるは、強き眼光と決意を秘めた応え。

「逝く」

音は同なれど、意は異であると確かに感じ取り、景吾は自然、顔を伏せた。
弦一郎は懐に手をいれる。そうして取り出した畳紙(たとうがみ)を、景吾に差し付ける。
「これは」
景吾の手にそれを持たせると、戸惑いがちに紙を広げた。
淡い紫の誠に美しい花が、茎と葉と共に丁寧に押されてある。
「桔梗の、押し花…」
「押し花にした方が長く保(も)つと聞いた」
「…っ、独りで生きていけと!?お前のいないこの世で、そんなに長く生きろと言うのか!」
押し花の寿命は長い。
景吾は稀有な色の瞳をゆらと潤ませ、弦一郎に取り縋った。
「生きて欲しい。…俺の分まで。身勝手な願いだとわかっているが」
細い肢体を壊れんばかりに抱きしめ、逝く武士は声を絞り出す。
「――ならば、俺の願いも叶えてくれ」
陰間は改まった口調でそう告げた。
全てを諾としたかのような、柔らかい声音だ。
弦一郎が名残惜しげに腕を解くと、景吾は桔梗を懐に収め、結わえた髪に手をやる。
抜き取ったのは、漆塗りの櫛だった。
花魁を真似るはやり子(売れている陰間)が挿すにしては、小ぶりで地味な態(なり)をしているが、値の張る品だとわかる。
「母の形見だ」
言いざま、景吾はその櫛を折った。
ぱきりと乾いた音が、路地の闇に溶けて消えた。
「景吾?」
「この片割れを預けるから。いつか必ず……返しに来い」
涙の混じった言葉に、弦一郎は瞠目する。
「今生はこれで最期だけど――来世でまた、逢えるだろ?」
弦一郎が震える掌から、櫛の半分を受け取った。
「それならば、叶えられそうだ」
微笑む景吾の頬を、雫が一筋伝う。
それを拭い、弦一郎は今一度景吾を抱き寄せる。
先よりも水の色を濃くした声が、愛しさをただ一言、手向けに紡いだ。

「約束、だからな」

「承知した」








「逝って、参ります」




貴方の元へ。

















「おじゃまします」
玄関で律儀に靴を揃える跡部の背中に、真田はそっと笑いかけた。
跡部が身体を起こす頃には、その顔はいつもの仏頂面に戻っていたのだから、随分と器用な男だ。
跡部に先に自室に行っているよう促し、真田自身は茶を注ぎに台所へ向かった。
ふたつの湯呑みと茶菓子を用意。
それからもうひとつ、大事なものを手に持ち、跡部の待つ部屋を目指す。
長い廊下を渡り、目的の障子の前まで来ると、真田は一度だけ深呼吸をした。
「跡部。すまないが手が塞がっている。開けてくれ」
「ったく、しょうがねぇな」
バサリと、雑誌を置く音。続く足音、映る影。
美しい顔を眼前に認め、隠し持ったそれを差し出した。

淡い紫の、今を盛りと咲き誇る、一輪の。

「桔梗…?」

「今日は何日だ?」
「10月、4日」
「これから毎年、誕生日に桔梗を贈ってやろう」
「!!!?……ぇっ、お、おま、そんなキャラじゃないだろ!?どうしたんだよ真田っ」

「約束だからな」

真田は、今度は跡部の目の前で、微笑んでみせた。
半分の櫛を、その掌で握り締めて。








「只今、戻りました」



貴方の元に。








桔梗・・・「変わらぬ愛」













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