謀らずも、恋の炎は放たれた。







「どないして、こないな事に…」

忍足は胡乱げに呟いた。
小さくなっていく女の背を見送りながら、己の部屋の玄関で。
あの女はただの暇つぶしだったのだから、それほど落胆してはいない。
だが、それなりに楽しめる暇つぶしにはなったはずで、この状況が面白くないことは確かだ。
ロックをしてリビングに戻れば、暇つぶしを潰した原因が、何かをつまんでいた。
「忘れ物だぜ」
ふわりと投げられたそれ。紫色の、悪趣味なガーター。
「お前、年増が好み?」
「…あいつはあー見えて18や」
言いながらガーターをゴミ箱へ放る。白い瞼が一度、殊更ゆっくりと瞬きした。
(これは、跡部が驚いた時の癖)
無意識下で、忍足はぼんやりと思う。
「で?」
立ったままの跡部を促しもせず、一人でソファーに座る。
「お前は何しにきたん」
「客に茶くらい出せよ」
こいつ。追い出したろか。
一瞬そう思ったが、面倒くさいのでやめておいた。
追い出すよりも、安物の紅茶のティーバッグをお湯に突っ込む方が、何倍も楽だ。
忍足はこれ見よがしに溜息を吐いて、重い腰を上げた。



勝手に忍足の定位置に腰掛けていた跡部は、目の前に乱暴に置かれた白いマグカップを見遣る。
ティーバッグが浮いたそれに、右の眉が跳ね上がったが、気にする忍足ではない。
「で?」
ラグに直接座り込み、もう一度、忍足は問うた。
すらりとした脚が組み替えられる。その仕草を目で追う。
腰から脚へと流れるラインがとても美しいことを、忍足は知っている。

(どうして知っている?)

頭の中で、言葉が閃いた。

(部活でよく目にするから)
(違う)
(普通、男の脚に気を留めたりなんてしない)
(実際、跡部以外の部員の脚など知らない)
(当然だ。知っていたら、変態だ)
(では、どうして跡部のは知っている?)
(それは、“そういう”目で、跡部を見ているから)
(“そういう”目って、どういう目?)

跡部はマグカップを手に取り、どうでも良い様な口調で言った。
「お前、今日誕生日なんだろ」
「…だから?」
「……」
「……」
「…い、わいに来てやったんだよ」
「――はァ?」
忍足は、信じられないものでも発見したかのように、跡部を凝視する。
照れているのか、すべらかな頬が僅かに赤い。
「お前が?俺を?」
「それ以外あるかっつぅんだよ」
「え…、いつから俺ら、そないな間柄に…」
もちろん、なっているわけが無い。
現在進行形で、両者の間には険悪な空気が漂っているのだ。
忍足は跡部が苦手だった。
横柄な態度。全てを見透かしてしまいそうな眼。直接的な物言い。
その存在に、己の調子を狂わされる。
苦手というよりも、気に食わない、の方が正しいかもしれない。
一方、跡部は跡部で、忍足を嫌っているように見えた。
そうれなれば、自然、忍足の跡部に対する振る舞いは冷たいものになったし、跡部も同じように忍足に接してきた。
だというのに。
「意味がわからんのやけど」
「……」
「もしかして、」
跡部が肩を揺らした。
紅茶の表面が小さく波打つ。
「何か、企んどるとか」
さっと跡部の貌から表情が消える。
色づいていた頬は瞬く間に白くなり、何故か忍足の胸を締め付けた。
「――違う、」
「せやったら」
「俺はただ…!」
ふと、忍足は気付いた。
まだ、紅茶の表面が不安定に揺れている。
取っ手の細い指先、袖口から覗く手首、黒いシャツに覆われた腕と肩。
その全部が、小さく震えている。
そして、忍足を射抜く瞳は、怯えたような、怒ったような、不思議な光を湛えていた。
空の果てに引き込まれていく錯覚。
否。跡部の青い眼に、果ては無い。

抑え難い想いに戦く躰を、その眼差しごと、抱きしめたい。

唐突に衝動が訪れる。
(そうだ)
先刻、ドアの前に跡部を認めた時もそうだった。
人が来ていると、部屋に上げなければよかったのだ。
約束をしていたわけでもない。跡部が勝手にこのマンションにやって来た。
断って当然だったのに。
忍足は女を帰し、跡部を招き入れた。
それは何故か?
ドアの前に佇み、忍足を見る目が、切なげに揺れていた。今にも泣き出しそうに、けれど強く捉えるように。だから。
今と同じ。果て無き宵初めの空を、
(抱きしめたいと思った)
この抗いがたい衝動は、
(愛しい――)
という感情ではないだろうか。
(それはつまり、跡部の事が、)

ピンポーン

来訪の合図に、忍足の思考は途切れた。
玄関へ向かおうとする忍足を、跡部が「ちょっと待て」と止める。
「俺が呼んだやつだ」
「は?」
展開についてゆけない部屋の主を尻目に、客人のはずの跡部が我が物顔で廊下を進む。
ドアの開く音、それから、複数の足音。
忍足の前に現れたのは、エプロン姿の男だった。
彼の胸でポップな文字が主張している。花屋だ。
「日当たりの良いところの方がいいんで、窓の傍に置いてもよろしいですか?」
「ああ」
「では、こちらに」
跡部が頷くと、早速花屋は大きな鉢を窓際の床に降ろした。
「ご苦労だった」
「ありがとうございました!」
跡部に伝票を渡す。丁寧に礼をして、男が部屋を出て行く。
忍足は、ちらりと鉢に視線をやった。
背丈のある、葉の大きい、いわゆる観葉植物というやつが、ここにある。
色の少ない殺風景な空間に、驚くほど鮮やかに。
「もしかして、」
「もしかしなくても、誕生日プレゼント」
先回りで答えられた。
「ストレリッチアっていう名前の植物だ。大事に育てれば花も咲くらしいぞ」
跡部が鉢に近づき、そっと葉の一枚を撫でる。
嬉しそうなその姿に、心臓のあたりがぐっとする。
言うべき文句など、見当たらない。

(自覚すれば、後は簡単)

ぱっと忍足を振り返り、跡部は笑って言った。

「花、咲かせてくれるよな?」




恋に落ちた男に、否やを唱える術は無い。








ストレリッチア・・・「恋に落ちたプレイボーイ」













もしくは、「恋する伊達男」
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