
塩素の匂いがひどく恋しい。
プール開き当日、学校内でどのクラスよりも早く、溜めたての澄んだ水に浸かることを許されたのは、3−B・Cの男子たちだった。
南は仰向いて、心持ち唇に笑みを乗せた。
雲ひとつない晴天、風は無く、気温に至ってはおかしいくらいの猛暑っぷり。
なんて素晴らしきプール日和!
足裏を焼くコンクリートの熱に騒ぎつつ(元気真っ盛りの少年たちが40人も集まれば、落ち着きないことこの上ない)、準備体操。
冷たいシャワーもそこそこに、塩素で殺菌、いざ水際へ。
プールサイドに座り、冷たい水に足を慣らしていると、後ろから声を掛けられた。
「ちょいと、そこのさわやかボーイ」
なんとも刺々しい声。発生源は嫌というほどわかる、
「千石…」
テニス部のエース、その人である。
振り返ればやはり、背後にいたのはオレンジ頭の男で。しかし、彼は何故か恨めしそうな顔で(彼曰く)さわやかボーイを見ていた。
「な、なんだよ。その目は…」
じっとり。次いで溜息。
「見るたびに毎回思うけどさ。南のソレ、反則だよね」
ソレ、と言って千石が指したのは、南のてっぺん。
いつもはつんつんとはりねずみのように逆立ち、地味ーズらしからぬ派手な雰囲気を醸し出している髪が(まぁ、オレンジやら銀やら芽やらの中にいたら全く以て地味なのだが)、ぺったりと降りてしまっている。
朝の貴重な時間を割いて頑張ってセットした髪だ。南も多少躊躇いはしたものの、プールの誘惑には勝てずに、いそいそとシャワーでワックスを綺麗に洗い流した。
そうすると、ひどく違った印象になるらしい。降ろすたんびに誰かしら騒ぎ立てる。本人にしてみたら、全然理解し難い意見なのだが。
「お前、自分のクラスに戻れよ」
「どーせ最初は自由時間だろ。だったらいいじゃん」
「いや一応まだ皆背の順に並んでっから。それにさっきからオオタがこっち睨んでっから」
オオタ、とは南たちのクラスの体育教師のことだ。彼はすぐに生徒を走らせる。
南は絶対に水着姿で校庭を走るなどしたくなかった。
(頼むから大人しくしててくれ…)
額に張り付いた前髪をかき上げて、千石が肩を竦めた。
「残念だよ、南。キミとならこのガンジガラメのルールをぶち破れると思ったのに…」
「かっこよく言ってもダメ!っていうか雁字搦めって明らかにイントネーションおかしいし!」
はっ、しまった!声を上げすぎた!!
「こら、千石!自分のクラスに戻れ!!」
プリプリ怒りながら、とうとうオオタが千石へ向かってきた。
ニコニコ笑いながら、千石がオオタへ向かって親指を立てた。
「センセー、相変わらずイイ筋肉してますねっ!俺らも見習いたいな、どーすればそんなステキボディーになれんのかな、ってテニス部部長・副部長として話し合ってたんですよ今!」
「…」沈黙。
「…」沈黙。
「…」沈黙。
「それなら仕方ないな…今度筋トレのメニューを教えてやるから、聞きに来い」
ピピーーーーーッ「よーし、プールに入れ!15分間自由時間!」バシャバシャバシャわーー。冷てぇー!気持ちいいーバシャバシャバシャ………
「…って、そんなんでいいのかよオオタ!?」
「アイツって、おだてに乗りやすいよなぁ」
「あれですよね、お前様は一人でじゅーぶんガンジガラメのルールをぶち破れちゃいますよねコノヤロー」
「でね、クラスの女子が言うわけよ」
「でねって何だ。間違ってるぞその接続詞」
ほっとけばいいのに、律儀に返す南。
入れていた足までプールから上げて、千石に向き直った。
「『南くんって可愛い顔してるよねーッvきゃー!』」
「はっ?」
「『髪降ろすとめちゃめちゃジャニーズ系〜vv』」
「はぁ!?」
どうやら女子の真似をしているらしい。甲高い声の千石は程よく気持ち悪かった。
「『千石、アンタ、髪降ろした南くんを写メってきてよ』」
「はぁぁぁ!?」
「…毎年プール始まったあたりから、南ファン増えるんだよね…」
山吹中もそこそこ生徒数は多い。毎年レア南(?)を目に懸けることのできる女子は、同じクラスか近隣の教室の者たちだけなのだ。
俺の方がイイ男なのにさー。拗ねる千石に南は背を向けた。
「あーもう付き合ってらんねぇ」
溜息をついて改めてプールサイドに腰掛ける。途端、背中に、衝撃。
「ぇ、う、っわぁっ!!!」
バシャーン!!
南は水面に微かに身体を打ち付けて、ゴボゴボと底まで沈んでいく。
落ちた瞬間は何がなんだかわからなくて、目を強く瞑ってしまっていた。
身体が浮くのに合わせて、状況を把握しだした南は、目をぱっちりと開けた。
眼球に直に水が当たるのは気持ち悪かったが、光を纏う無数の泡が綺麗で、じっとその後を追ってしまう。
水泡が向かう先、内側から見る水面は、ゆらゆらとゆらめいて景色を歪ませていたが、青い青い空の色と、オレンジの輪郭だけはどうにも鮮やかだった。
「―――――ぷはっ!」
「おかえりー」
水の中を覗き込む体勢で、千石がにっこり笑う。
強い太陽の光は、突き抜けるような青と、地中海で育った色濃い果実に似た橙を、くっきりと別けていた。
それがあまりにも“夏らしく”て、怒る気が失せてゆく。
また、夏を感じた。大好きな夏は目の前だ。心が躍りだす。
「これは、プレゼントその1、だよ」
「は?これのどこがプレゼント?ってかプレゼントって、なんで?」
「なんでって…」
千石はちょっと呆れた顔になって、それから楽しそうに声をあげた。
「今日は7月3日でしょ?」
「…あ。俺の誕生日?」
「そ。だから、ひとつめのプレゼント。モテモテの君がさらにモテるよう、“水も滴るイイ男”にしたげたのだよ!!」
「イミわかんねーしなんか嫌味くせぇ!」
「あ、ばれた?ま、ふたつめのプレゼントは部活の後に渡すからさ。楽しみにしててよ」
とりあえず…
ひょい、と掲げた千石の手には。
HAPPY BIRTHDAY 南 !!!!
パァン!!
プールサイドに、場違いなクラッカーの音が響いた。
夏が来る。夏が来る。
千石の満面の笑顔に真夏の太陽を重ね見て、南も思いっきり笑った。
「こらー!!千石!南!さすがにそれはいかんだろう!校庭20周行って来い!!」
「お前、それどこに持ってたんだよ…まさか…」
「おっと、それは企業秘密だよ〜パソコンの前のかわいこちゃんたちが引いちゃうだろう?」

南、誕生日おめでとう!
微妙に祝いきれてなくてごめん(笑)
2005.07.03 涼河弥空
STORY/CONTENTS
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