★ ROUND23:月に手をのばす ★ すっかり暗くなってしまった道を、跡部は颯爽と駆け抜けた。 春の夜風は冷える。 けれど、今はその冷たさが心地良い。 思えば、最近走ってばかりの気がする。 忍足の「悪戯」に怒って、学校中を走り回ったり。 岳人に八つ当たりして、山吹まで逃げ出したり。 そうして今は、彼女に謝るために、ただひたすら急いでいる。 抑えきれない想いが、溢れ出して急かすのだ。 怒りも悲しみも焦りも――恋しさも。 全部が全部、跡部を急かして走らせる。 『MUKAHI』の表札の前で立ち止まり、跡部は静かに一角を見上げた。 2階の一番端。岳人の部屋は、カーテンが引かれているものの、明かりが点いているのがわかる。 少しだけ上がった息を整えてから、携帯を取り出す。 かける先は、もちろん岳人だ。 1コール、2コール――7コール目が鳴り終わるところで、ようやく呼び出し音が途切れた。 『………なに?』 固くて棘のある声だった。 普段の彼女とは全く違う。 拒絶の意思が受話器越しにひしひしと伝わってくるようで、それでも、跡部は臆すことは無い。 「話がある。今お前んちの前にいる」 真っ直ぐな視線と同じように、真っ直ぐな声で。 もう逃げないと決めた。 「岳人」 跡部の凛とした気配に、受話器の向こうの岳人が気圧されるのがわかった。 少しの間があいた後、相変わらずの固い声のまま、『――行くからちょっと待って』と岳人が呟いた。 通話が切れたのを確認してから、跡部は携帯をスカートのポケットに突っ込む。 走った後の熱さはとっくに引き、肌寒さに、制服のまま来てしまったことを少しだけ後悔した。 夜空を仰いでみても、星は見つからない。 月だけがぼんやりと、輪郭を滲ませて低い位置に浮かんでいる。 「Cry for the moon.」 ふと浮かんだフレーズを零して、跡部は小さく苦笑した。 かたん、と音がしたので、視線を戻す。 岳人が戸惑いも露に、玄関を閉めてこちらへやって来た。 「何の用だよ」 「謝りに来た」 「――え?」 心底驚いた、といった表情で、岳人は顔を上げる。 跡部がおいそれと謝るような人間でないことは、付き合いの深い岳人ならよく知っている。 「お前は何も悪くないのに、俺が勝手に嫉妬して、八つ当たりしたんだ」 「やつ、あたり…?」 首をかしげる岳人に頷き返して、跡部は続ける。 「お前が、忍足と仲良さそうに喋ってるのが気に入らなかった。 忍足は、お前のことがすごく大切で…お前のことが好きで。 お前にだけには、本当の笑顔で優しく笑いかけて。 ……なのに、俺に好きだなんて冗談を言ってきて」 岳人が愕然と目を瞠る。 もしかしたら、岳人は忍足の想いに気付いていないのかもしれない。 だとしたら、“忍足はお前が好きだ”なんて、言ってしまったのは拙かっただろうか。 「俺をからかいやがって、と思ったらムカついた。 岳人が好きなくせに、と思ったら辛くて仕方なかった」 自分で自分の感情をコントロールできなくなった。 どうしようもなくイライラして、岳人に当たって――階段から落とすという、最悪な事をしてしまった。 そこで現れた忍足を見て、絶望を知った。 ほら、やっぱり。「好き」だなんて、嘘だった。 そうして真実を目の当たりにして、こんなにも傷ついているのは。 「俺は、忍足が――好きなんだって。だから、お前に嫉妬して、酷いことをした」 「景…」 「ごめん。ごめんな、岳人」 岳人が緩く首を振る。その瞳には、うっすらと涙の膜が張っていた。 小柄な身体が、ぎゅっと跡部に抱きついてくる。 「俺の方こそ、ごめん、景」 「なんでお前が謝るんだよ」 そっと髪を撫でてみる。途端、しゃくり上げながら岳人が言った。 「だ、だって俺、お前の気持ち、なんにも知らないでっ…お前がそ、そんなに、ツライ想いしてたなんて…」 「俺が言わなかったんだ。知らないのは当然だろ?」 「言われなくたって、気付くのが友達ってもんだろぉっ!?な、なのに、俺は、無神経なコトばっかり言っ…ふえぇ」 全く、宍戸といい、岳人といい、おかしいくらい情に厚い奴らだ。 喉が詰まってしまって、笑うことができない。 跡部は岳人を抱きしめ返した。 涙を落とさないように、もう一度月を見る。 先ほどよりもその光は滲んで、輪郭すら覚束ない。 (嗚呼、忍足。 お前は確かに、女を見る目は正しいんだな。) 明るい日差しみたく、無邪気に笑って。 気に入らないことがあれば、わかりやすく怒ってみせて。 友達のことを、我がことのように、想って泣いて。 女の子らしく、可愛いものが大好きで。 勉強はいまいちだけど、テニスはかなり頑張っている。 いつも一生懸命で、キラキラしてる、岳人。 そんな彼女を、好きになるのは当然だ。 これまで跡部は、他人に羨まれる側の人間で、他人を羨んだことなど一度も無かった。 人は人なのだから、自分と比べても意味は無いし、例え比べても、自分が人より劣るわけが無いと自負していた。 けれど今、跡部は間違いなく、岳人のことを羨んでいる。 その感情は、妬むというよりも――どこか、憧れに似た色をしていて。 「景…。侑士が、俺を好きだなんてことは無いよ?侑士は、ホントに景のことが、」 跡部が首を振ったのが、気配で伝わったのだろう。 岳人はぴたりと言葉を止めた。 代わりとでも言うように、抱きしめる腕の力が強くなる。 「…侑士のこと、信じられない?」 「………あいつの顔見てれば、わかる」 「そうかなぁ」 「そうだ」 「確かに、景は人の心を読むのがうまいけどさ。侑士だって、心を隠すのが得意なんだよ」 いつの間にか、岳人の声に涙の余韻は無くなっていた。 「なぁ、景。侑士に何も伝えないまま、諦めるなんて、お前なら言わないよな?」 どうだろう、と跡部は心の中で応えた。 今までの跡部ならば、何においても、“諦める”という選択肢を真っ先に切り捨てたはず。 だが、こればかりは勝手が違うということを、跡部はこの数日で理解していた。 (Cry for the moon.) 岳人のような、天真爛漫さで人を惹き付ける魅力も。 忍足の本当の笑顔も。 どんなに泣いて欲しがってみせたところで、手には入らない。 岳人の背から手を離し、跡部は静かに笑う。 月の光はあまりに遠く、傷ついた青い瞳を照らすことは無かった。 ★ 補足:Cry for the moon=月を欲しがって泣く=無いものねだり 有名なことわざなので、皆さんご存知だと思いますが、一応^^ 実際、岳人が自分の友達だったら、劣等感持ちまくりかもしれない(笑) だってあの子かわいいもの… 09.08.18 涼河 |