知らずに犯した過ち、隠れた罪から
どうかわたしを清めてください

(「詩篇」第19章13節)









Angel 1







薄青の空が広がっている。
その中に飛行機雲が一筋昇ってゆく様を、少年は啓示を享けるかのような敬虔さで見つめていた。












「あ。ボールカゴ忘れた」

ネットを張っていた鳳長太郎は、その独り言を聞きつけると、首だけを振り向かせた。
声の主はといえば、テニスシューズを履きかけた体勢のまま『しまった』、という表情をしている。
しっかりしているようでどこか抜けているのが、この宍戸亮という先輩だ。



すっかり秋めいてくるこの時期。全ての大会を終えてはいたが、宍戸ら3年生は自主練という名目の元、引退したテニス部にしばしば顔を出していた。
今年の3年レギュラー陣はとにかく華があって個性的で、1・2年は彼らが揃って部活に来たならば、うっとりと見つめてしまうほどである。
そんな憧れの先輩達がラリーを始めると、氷帝テニス部はいよいよ活気に満ち溢れるという有様だ。
彼らが部を去った今、200人弱の者達を引っ張っていかねばならない立場にいる鳳にとっては、複雑な心境ではあるのだが。
いかんせん、鳳自身も彼らの熱狂的なファンなのだから、どうしようもない。
恵まれた体格から打ち出される、超高速のサーブ――スカッドサーブを武器に、2年生ながらレギュラーへのし上がった鳳は、彼らを、殊更に宍戸亮を間近で見つめてきた。
夏にダブルスを組んだ縁で、宍戸とは今日のように自主練習を共にすることもしばしば。
彼らの背中から、眼差しから、言葉から、たくさんのことを教わった。
鳳は宍戸を、元レギュラー陣を誰よりも敬愛していると自負している。
そして彼らがコートに立つ姿を目にするたび、信仰してもいない神に感謝するのだ。
彼らと巡り合せてくれたことを。
ありとあらゆる想いが交錯する、白いラインで作られた箱庭の中で。



だがしかし常に多勢の声と思考が飛び交うテニスコートは、部活休みの本日日曜、珍しく宍戸と鳳の貸しきり状態だった。

「俺、取ってきますね」

鳳が宍戸に笑いかけて言うと、

「わりぃ」

と彼は右手を顔の前に立てて謝ってくる。
それに軽く頷き返し、鳳はコートを足早に横切った。
開きっぱなしのジャージの裾が、たなびいてばさりと音を立てる。
カレンダーは10月に差し掛かり、空気も温度を下げて、朝などは寒さすら感じる。
冬が近づいてきている。
そう感じて、鳳は自然、頬を緩ませた。
あの頬を刺す冷たい空気はどこまでも清澄で、自分を凛とした気持ちにしてくれる。
それに、真っ白な雪は天使の羽根が降っているかのように見えて綺麗だ。
だから鳳は、冬がたまらなく好きだった。



クラブハウスまでのいつものルートに足を進めかけて、彼はふっと足を止める。
風はほとんど吹いていない。鳳の頭上を、一羽の鳥が長閑に通り過ぎていった。

「今日はこっちから行こうかな」

何かに導かれるように、少年は踵を返した。

その胸元で一度、十字の銀がひそりと光った。



氷帝学園の敷地は広大である。
そしてその広さに見合う生徒数。
これだけ生徒がいれば、信仰深いキリスト教徒もいるだろう。そんな彼らのために礼拝堂を建てよう。とはどこの資産家が言い出したのか。
誰からかの寄付金によって、氷帝学園には小さな礼拝堂がある。
しかし、寄付した人物の読みは大はずれ。礼拝堂に立ち寄り、祈りを捧げる生徒は滅多にいなかった。
庭園の隅にひっそりと、息を潜めて建つそれは、忘れかけられた存在。
清掃員と迷える子羊だけが、稀に訪れる場所。
鳳長太郎はクロスを身に着けているとはいえ、キリスト教徒というわけではない。
日本人ではない曾祖母が、非常に熱心に信仰していたらしいが、祖父母も両親もその思想を継いではいない。
だから彼も多くの生徒同様、礼拝堂の扉を開いたことは無い。ただ――
そう、ただ、ときたま庭園に寄り道して、そっと遠くからその孤独で美しく、どこか懐かしい外観を讃えるだけ。

陽光を受けて静かに佇む小さな"聖域"が、鳳にはとても尊く思えて、胸が暖かさで満たされるから。



「庭園に来るのは久しぶりだな」

コートとクラブハウスを繋ぐ道順に、庭園を通り抜けていく順路がある。
遠回りになるこの順路を使うのは鳳くらいなもので、ましてや今日は休日。
人の気配などするわけがない。
その静寂に鳳は自然、足音を抑えてアーチをくぐり、幾筋にも分かれた煉瓦道を迷わずに進んでいく。

薔薇の木も芝生も鮮やかさを失っていき、ひと時の眠りへ向かう庭園は、ひどく寂しい。
静かな色の中、白い壁とドーム型をした深緑の屋根、その頂に十字架を備えて、氷帝学園の礼拝堂が少年の到着を待っていた。

「…あれ?」

いつもとは違う礼拝堂の雰囲気に、鳳は首を傾げる。
一体何が違うのか――鳳自身、定かでは無いのだが、明らかに"違う"のである。

彼は、知らぬ間に、常にないほど礼拝堂に近づいていた。
これまでは、壁の向こう側にあるかのような感覚で見つめていた、礼拝堂。
足を踏み入れることなど欠片も考えていなかった、その、"聖域"。
それは例えるならば、絵本の中の城のように。

そこに今、惹きこまれていく。

抗えない力。

無意識に足が動いて、腕が伸びて、そして、扉に触れる。

(いつもはきちんと閉まっているのに………)

扉には、人ひとりが通れる程の隙間ができている。

(誰かいるのか…?)

鳳はそっと、隙間から内を窺った。





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