ああ――なんだか酷くイライラする。






★ ROUND18:さよならイノセント ★



朝から霧雨が舞う、どこか憂鬱な日だった。
寿命の近い桜の花びらが、水分を含んで、次々と落ちてゆく。
図書室の隅からその様をぼんやりと眺めていた跡部は、ふと我に返って手元に目線を落とした。
楽しみにしていた推理小説の続編。この間、南と出掛けた時に買ったものだ。
まだかまだかと心待ちにしていた本なのに、少しもページが進まない。
自分から観たいと言い出した昨日の映画も、全然覚えていない。
いつもだったら、南とあそこは良かった、とか、あの俳優の演技は最高だ、とか、演出が好みだ、とか。たくさん喋って「またな」と笑い合って別れるのに。

岳人に偶然会ってから、ほとんど会話をしなかった。
「またな」と言わなかった。
映画の内容はほとんど覚えていないけれど、別れ際の南の、困ったような顔は鮮明に思い出せる。

(健太郎に悪いことしちまったな)

優しい従兄弟のことだから、きっと心配しているだろう。
全くどうしてしまったのか。
跡部自身、よくわかっていない。

『もうすぐ侑士が来るから』
『今日遊ぶ約束してんだ』

楽しみでたまらないといった様子を隠そうともせず、破顔した岳人。
その瞬間から、自分の感情をうまくコントロールできなくなった。
苛々して仕方がなかった。
それから、何故だか悲しかった。
脳裏に浮かんだ忍足の、考えの読めない笑顔に向かって、「嘘つき!」と叫んでしまいそうになった。

は、と、跡部の口からため息のような失笑が漏れる。

「嘘つきってなんだよ…」

最初からわかっていたはずだ。
忍足のあの態度は暇つぶし。だから本気にしてはいけない。
跡部は本を閉じ、おもむろに席を立った。
まるで忍足と岳人を避けるかのように逃げ込んだ昼休みの図書室で、結局、彼らのことを考えてしまっている。
図書室は失敗だった、と彼女は思う。静かな空間は、人を思考の殻に閉じ込める。
顔見知りの図書委員が、カウンターの中から会釈をしてくる。跡部も同じ様に会釈を返して、図書室を出た。

あてもなく歩きながら、さてどうしたものかと考える。

「そういや、ハギが昼休みは音楽室にいるって言ってたな」

ゴールデンウィーク明けの合唱コンクールで、滝はピアノの伴奏に選ばれたらしい。
そのお陰で、彼女はここのところ音楽室に通っては練習をしているようだった。
都内の学校が集う公式のコンクールだからと、担当の榊も熱が入っているのだ。
選択教科は音楽を選ばずに乗馬を選んだ跡部だったが、滝に、

『景がいれば僕はやらなくて済んだのに』

と冗談混じりに拗ねられて、苦笑してしまった。

様子見ついでに何か一曲おねだりしてみようか。
そう決めれば幾分心が軽くなって、跡部は階段を足早に上る。
すると、踊り場を抜けたところで、少女の声に呼び止められた。
反射的に足が止まる。振り向かなくても、声の主はわかっている。

「ちょっと、景!聞こえてんだろ?」
「…何だよ」

ちらりと後ろに視線を遣れば、ワインレッドの髪が鮮やかに揺れた。
跡部の硬質な空気に気圧されたのか、岳人がぐっと言葉に詰まる。
それでも、気の強い彼女は、じっと友人の顔から目をそらさない。
真っ直ぐに突き刺さる視線にイライラして、跡部はまた階段を上りだした。

「景!」

(うるさい)

「待てよ!お前、昨日からなんなんだよ、その態度っ」

いい加減岳人も痺れを切らして、荒い口調で追いかけてくる。

「無視すんな!!」

(うるさい!)

駆け出そうとした跡部の腕を、追いついた岳人が捕らえた。

「景…っ」

「うるさい!!!」

跡部は、腕を掴む岳人の手を思い切り振り払った。
その力に岳人は身体をよろけさせ、足を踏み外して――

「ぁっ!?」

ふわりと、小柄な身体が宙に浮く。

「がく…!」
「岳人!!」

突然のことだった。
下から駆け上がってきた影が、岳人の名を叫んで、その身体が階段を転げ落ちる寸でのところで抱きとめた。
見事な俊敏さと力強い腕。それは、

「ゆ、侑士…?」

忍足のものだった。

「なんで……」

未だ事態が飲み込めていない岳人が、ぼんやりと忍足を見上げて呟く。
忍足の方ははーと安堵のため息を吐き出してから、岳人を見下ろした。

「大丈夫か?どっか痛いところあらへん?」
「うん、だいじょ…ぶ…」

怪我は無いかと訊かれ、岳人はやっと自分が階段を落ちかけたのだと把握する。
顔をさっと青ざめさせて、傍目にもわかるほど震え始めた岳人。
その様子を、跡部は上から茫然と見ていた。
忍足が、岳人から跡部へと顔を向ける。
黒い瞳が冷たい光をたたえて跡部を射抜いた。

「何やっとるんや」

今までに聞いたことのない、感情を押し殺した低い声。
無表情の中、その眼光だけが怒りに揺れて。











ああ、ほら。






やっぱり。











やっぱり、『好き』だなんて、嘘だった。











跡部はさっと身を翻し、階段を上り切ると、音楽室には向かわずに廊下を走り抜ける。
冷静になって考えてみれば、自分が勝手に苛ついて、一方的に岳人を拒否した所為でこのような事態になったことなど、容易くわかる。
けれど、今の彼女に己の非を顧みる冷静さはなかった。

走りながら、跡部は唇を噛み締めた。

忍足は、跡部より岳人が大事なのだと、見せ付けられたような気がした。

好きだと言っておきながら、あんなに冷たい目で睨んでくる忍足を目の当たりにして――ショックだった。


ひどく胸が痛い。


どうしてだろう。





泣きそうだ。





上ってきた階段とは別の階段を、今度は駆け下りる。
そのまま、混乱のさ中の少女は、昇降口から飛び出した。


春の冷たい霧雨の下へ。








***********



走る。
走る。


無意識に、誰かの助けを求めて。


(どうしよう…!)


何をどうしようと困っているのか。
それさえも曖昧なまま、跡部は走る。



そうしてたどり着いたのは――










校門からちらほらと散っていく白い制服。
跡部は唐突に思い出した。

そういえば、昨日従兄弟が、翌日は午前授業だと言っていた。

(健太郎っ)

南を思い出した途端に涙腺が緩んで、慌ててぐっと耐えた。
喉がやけにひきつる。

ここで待っていれば、会えるだろうか。

すっかり濡れてしまった風体で校門に近づいてくる美少女に、帰路に着く山吹の生徒達が、振り返っては通り過ぎてゆく。
身体が重たいのは、きっと雨を吸い込んだ服の所為だけではない。
跡部は門柱に背を預けると、小さく項垂れた。
水色のスカートが、色を濃くして脚にはり付いている。
ローファーもぐしょぐしょだ。

心細さに押し潰されそうになったとき。
ふ、と、誰かが目の前に立つ気配がした。

少し目を動かせば、見たことのないスニーカー。

(健太郎じゃない)

じゃあ、誰だ?


「景ちゃん?」



飄々としているけれど、どこか意志の熱を感じさせる声。

顔を上げる。




鮮やかなオレンジの髪が映える少年――千石清純が、目を見開いてそこに立っていた。



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07.08.13 涼河弥空